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	<title>神室連峰　信仰と伝承</title>
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	<description>新庄コンピュータ専門学校平成19年度文部科学省委託事業資料</description>
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		<title>―神室山信仰について―</title>
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		<pubDate>Thu, 18 Jun 2009 00:56:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[0.はじめに　―神室山信仰について―]]></category>

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		<description><![CDATA[山形・秋田両県の境にそびえる神室山は、その名の如く「神の籠もる山」として、古い時代から篤く信仰されてきた。麓の村々では、神室山を農耕の神・水の神・養蚕の神として篤く敬い、旧暦六月朔日、または八月朔日に登拝し、山頂近くの「 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>山形・秋田両県の境にそびえる神室山は、その名の如く「神の籠もる山」として、古い時代から篤く信仰されてきた。麓の村々では、神室山を農耕の神・水の神・養蚕の神として篤く敬い、旧暦六月朔日、または八月朔日に登拝し、山頂近くの「神室権現の御田」を拝して今年の作柄を占い、また、村々の修験が配布する神室山の神札を田圃の水口に立ててこの年の豊作を祈った。夏の旱魃で稲作が危うくなる折には、人々はこの山を源とする谷川の滝壺に参って降雨を祈り、また、山頂に柴を積み、火をかけて雨乞いの祈祷をした。反対に冷雨が続き、作物が危うくなるときも、同様に山頂に登って柴を焚き、天気快晴、五穀豊穣を祈った。人々は神室山を「東のお山」、月山を「西のお山」と呼んで崇敬した。</p>
<p>麓の村々には、かつて村人を先達して神室山に登拝したという修験（「里山伏」・「法印」ともいう）の院や坊があり、登拝の道筋には、参詣の行者が宿泊したと伝える宿坊跡、彼等が垢離をかいて心身を浄めたという行場跡が点々と連なって残っている。金山町安沢の宿坊跡と伝える所からは、数万枚の中国古銭が発掘されている。</p>
<p>山頂には「大田神」・「水神」・「雷神」・「春日大神」などと刻んだ石碑が祀られている。</p>
<p>神室山は、また、天候を左右し、季節をもたらす神でもあった。人々は、この山にかかる雲のたたずまいをみて季節の天候を占い、この山に残る雪の形によって苗代に種をおろし、田植を進めてきた。金山町有屋辺では、初夏に吹く冷たい東風を「神室の吹越し」と呼び、これが続くと冷害になると言って恐れた。同じことを、新庄市萩野辺では、八森山について言っている。</p>
<p>秋の紅葉も、冬の雪も神室山からやってくる。最上町辺の正月迎えの童唄に「正月様どごまでござった　神室山の陰までござった　お土産はなぁに　どなたが迎えにござるのか。」というのがある。天候を左右し、季節をもたらす神室山は、麓の村々にとっては、即ち農作神でもあった。</p>
<p>神室山は、また、この上なく厳しい山の神である。神室山の北側、秋田県旧雄勝町役内あたりでは、神室山は田の神、水の神であると同時に山の神であるともしている。神室山は旧暦六月十二日に山から里に降りてきて田の神になり、十月十二日に再び山に還って山の神になるという。</p>
<p>神室山に登拝するには、守らなくてはならない幾つかの厳しい掟がある。その第一は女人禁制であり、第二は登拝前七日間、村の堂舎に籠もって、精進潔斎の日々を送らなければならないことである。もちろん、この間は魚・肉は一切断ち、行者の者だけで調理する精進料理を食べ、朝夕水垢離をかいて心身を浄めるのである。山内の神々に奉献する賽銭も、この間に塩で磨いて準備する。</p>
<p>第三に山内においては、一木一草たりとも無駄に折ってはならない。大声を発すことすら禁じられている。草木を折ってはならないとするのは、山内の一木一草、動物から岩石などの自然物まで一切が山の神の所有物だからである。</p>
<p>また、家族や近親者にお産のある場合、あるいは死者がでた場合には、一年間（厳しいときは三年間）登拝を忌むともされていた。さらに、お産や死者のある家の囲炉裏や竈で調理した食物を食べたものは（この火で喫煙したものも）、一週間あるいは三日間、山に入ってはならないともされていた。いわゆる「産火」「死火」の忌みである。</p>
<p>もし、万一にもこの戒めを破るようなことがあれば、登拝の場合は山が荒れ、思わぬ大怪我をしたり、時には落命の危険にもさらされ兼ねないというのである。また、山稼ぎの人々、杣職人は、鋸・山刀などの道具を隠されたり、あるいは突然の倒木で大怪我を負ったり、狩人は兎一匹の獲物も恵んで貰えないこともあるという。</p>
<p>これらの戒めは、秋田県役内地方に限らず、最上地方においても、全くと言ってよいほど同様である。金山町有屋地区では、出羽三山登拝の場合は七日間の籠もり、神室山登拝の場合は三日の籠もりとされていた。「産火」「死火」の禁忌は、新庄市萩野、仁田山、吉沢などの山際の村々には、今日でも日々の日常生活の中に活きている。</p>
<p>詳しくは後に譲るが、金山町有屋地区に伝わる民俗芸能の番楽、また、新庄市萩野地区に伝承されている萩野・仁田山鹿子踊の起源も神室山信仰との関わりで語られている。</p>
<p>神室山やこれに連なる山々についての地域の人々の信仰は、このように広く深いものがある。人々の生活が山の恵みに依拠する度合いが大きかった以前においては、この信仰はさらにさらに深かったに相違ない。</p>
<p>もちろん、ここでいう神室山信仰は、ひとり神室山単独の孤峰に関わる信仰ということではなく、この山の北に位置する前神室山・黒森、また、南に続く天狗森・小又山・火打岳・八森山・杢蔵山等の連峰、さらには、神室山から東に伸びる軍沢岳、大鏑岳・禿岳などの山々に対する信仰をも併せ称したものである。この他、これらの連峰から脇に分かれて、里近く孤峰を成している山々、例えば金山町の竜馬山、最上町の権現山などに対する人々の信仰も、前記の山々に対する信仰と等しく、極めて篤いものがある。神室山は、これらの山々、いわゆる神室連峰の盟主であり、それぞれの山の神の総奥の院と目されていた。神室山は、いわばこれらの山々の象徴なのである。</p>
<p>現在においては、「神室」ないし「神室山」の名は、当地方の公立高校や公園、特産の菓子、会社や企業などの名称にまで、冠とされている。この意味では、神室山は最上地方の表徴でもある。このようなことも、当地方の人々が遠い昔からこの山に寄せてきた篤い信仰に由来するものであろう。</p>
<p>神室の山々に対する人々の信仰は、また、実にさまざまな説話を生み出し、世代を通して人々の間に語り継がれている。それぞれの地名の由来、山の神、天狗・山人・竜神の怪等々、数え切れないほどの伝説・昔話である。この中に、私たちは先祖の人々の山や川についての思想（自然観、世界観と言ってもよい）の一端を垣間見ることができるように思われる。</p>
<p>私たちの先祖は、自然を決して人間と対立するもの、ましてや人間がこれを征服すべきものなどとは決してみていなかった。むしろ、自然を人間と同じく魂を持つものとして、畏敬の念をもって相対していた。</p>
<p>このような先人の自然観ないしそれへの対し方は、人類がいま直面している深刻な環境問題を考える上で、一つの大きな示唆を与えてくれるようにも思われる。</p>
<p>小書は、新庄コンピュータ専門学校の平成十九年度文部科学省委託事業「神室連峰登山ガイド養成講座」の参考資料の一つとして綴ったものである。講座のためにいささかでも貢献するところがあれば幸いである。</p>
<p>平成20年2月</p>
<p>&nbsp;</p>
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		<title>1.常楽坊と清光院</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 11:00:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[Ⅰ 神室山信仰の諸遺跡]]></category>

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神室山登拝口の一つに土内口がある。土内川の渓谷を遡って火打岳に登り、神室山に至るルートであるが、この道筋には神室山信仰にまつわるいくつかの遺跡がある。
土内村から遡って約７キロメートルの所、止まりの滝の少し手 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p><!DOCTYPE html PUBLIC "-//W3C//DTD XHTML 1.0 Transitional//EN" "http://www.w3.org/TR/xhtml1/DTD/xhtml1-transitional.dtd"><br />
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<p></head></p>
<p><body></p>
<p>神室山登拝口の一つに土内口がある。土内川の渓谷を遡って火打岳に登り、神室山に至るルートであるが、この道筋には神室山信仰にまつわるいくつかの遺跡がある。</p>
<p>土内村から遡って約７キロメートルの所、止まりの滝の少し手前に「常楽坊跡」という所がある。現在は数十坪ほどの平らな杉林にすぎないが、昔、神室山が繁盛したころは、ここに「常楽坊（壇ともいう）」という宿坊があって、参詣の行者を宿泊させたという。行者たちは、ここの少し上流にある「止まりの滝」で水垢離をかき、心身を浄めて登拝したと伝えられている。</p>
<p>以前、ここからたくさんの陶器片が発見されたというが、いまは見つけることができない。後世、神室参詣が衰えて以後は、常楽坊は萩野村に居を移し、清光院と名を改めて（山号は伽室山）、羽黒派の里修験となった。清光院は村人を組織して神室山登拝や八森山登拝、出羽三山参りの人々を先達したり、村のさまざまな祭りを主宰したり、祈祷をしたりして、人々の精神的支柱として仰がれた。現在は廃院しているが、同家には、いまも八森山の豊作祈願、養蚕加護などの祈祷札やその版木が多数残されている。</p>
<p></body><br />
</html></p>
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		<title>2.はっかえ（履き替え）</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 10:00:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[神室山登拝道の一つ、土内口の山道をたどり、約９キロほどの所に「はっかえ」と呼ばれる箇所がある。止まりの滝を過ぎ、谷筋の道を登りつめ、山腹を縫うややなだらかな道に移り始めたあたりの曲がり角の地点である。脚下の深い谷を隔てて [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>神室山登拝道の一つ、土内口の山道をたどり、約９キロほどの所に「はっかえ」と呼ばれる箇所がある。止まりの滝を過ぎ、谷筋の道を登りつめ、山腹を縫うややなだらかな道に移り始めたあたりの曲がり角の地点である。脚下の深い谷を隔てて、真向かいに岩山の断崖を遠望する見晴らしのよい場所である。</p>
<p>昔は、ここで、これまで履いてきた草鞋を脱ぎ捨て、新しい草鞋に履き替える所であったと伝えている。だとすると、この「はっかえ」は、きっと「草鞋を履きかえる所」、つまり漢字を当てれば「履き替え」の場所であったに違いない。</p>
<p>昔の人の考えによれば（現在の私たちも多分にそうであるが）、山、特に群を抜いて高くそびえる山は、人間の住む俗世（仏教でいう濁世）とは違って、神のおわす神聖なる浄らかな世界である。世俗によごれた人間がこの聖域に入るには、魚肉を断ち、この二つの世界の境において、水垢離をかき、口をすすぎ、衣服を改めて、心身を清浄にして入らなければならないということであった。こうしてみると、この「はっかえ」も、聖なる山神室山に入るに当たっての、心身の清浄化をはかった場所の一つであったに違いない。</p>
<p>そう言えば、有屋地区の聖なる山、竜馬山の登拝口にも「はっかえ」という場所があり、昔は竜馬山に登拝するときには、必ずここで草鞋を履き替えたものだと伝える。霊山羽黒山の登拝口には「袚川」があり、湯殿山には「装束場」がある。</p>
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		<title>3.有屋登拝道筋の宿坊跡</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 09:00:54 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[神室山登拝口の一つ、有屋口に至る道は、およそ現在の金山川に沿う道と考えられるが、これを証するが如く、この道筋には、随所に昔の神室山行者の宿坊跡とか、行場跡と伝えている場所がある。

まず、金山川下流部には真室川町平岡の平 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>神室山登拝口の一つ、有屋口に至る道は、およそ現在の金山川に沿う道と考えられるが、これを証するが如く、この道筋には、随所に昔の神室山行者の宿坊跡とか、行場跡と伝えている場所がある。
</p>
<p>まず、金山川下流部には真室川町平岡の平岡坊、金山町漆野の漆坊、持越の極楽坊、藁坊野の藁坊（ただし、この三ヵ坊は蒲沢口に至る行者の宿坊かとも思われる）などの遺跡があり、その上流部には、金山町魚清水に糠塚坊、稲沢に東学院、桜坊、宮に浄土坊、倍（梅カ）林坊、地境に直せん坊、柳原にふくせん坊などの名の宿坊跡と伝える地がある（次掲略図参照）。</p>
<p><img src="wp-content/uploads/kamuro01.jpg" alt="kamuro01" title="kamuro01" width="322" height="424"  /></p>
<p>また、宮の助堂（お助け明神を祀る）は、行者が疲れを癒した宮と伝えている。昔は、ここから尾根筋をたどる道（「お峰がけ」という）と、有屋川を遡る道（「お沢がけ」）とに分かれていたと伝えている。</p>
<p>もちろん、このすべてが真とは到底考えられないが、こうした伝えそのものが、昔の人々の神室山に寄せる信仰の深さを物語っているようで興味深い。</p>
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		<title>4.蒲沢登拝道筋の遺跡と安沢出土の古銭</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 08:00:26 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[蒲沢登拝道の道筋にも、神室山行者の宿坊跡と伝える場所や地名が多数ある。金山町持越の極楽坊、漆野の漆坊については別項に記したが、藁坊野については、「新庄領村鑑」に「大むかし香村山大権現江行者参詣の宿坊の跡なり共言」と記して [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>蒲沢登拝道の道筋にも、神室山行者の宿坊跡と伝える場所や地名が多数ある。金山町持越の極楽坊、漆野の漆坊については別項に記したが、藁坊野については、「新庄領村鑑」に「大むかし香村山大権現江行者参詣の宿坊の跡なり共言」と記している。「香村山」は神室山であるに相違ない。</p>
<p>また、これも別項にも記したが、「新庄寿永軒見聞集」には、神室山八方八口の道筋には多数の宿坊がある。新庄領についてみれば、「持越に極楽坊、山崎に藁坊、土内に常楽坊、安沢に久坊・高坊・吉坊迚三ヵ寺有リ、有屋村ニ二ヵ寺有リ、何茂其寺々之屋敷今之世迄モ印有リ。」と記してある。</p>
<p>右の安沢の久坊・高坊・吉坊の三坊についてであるが、このうち、高坊跡と伝える個所から、昔、大量の古銭が発見されたという。すなわち、前記「新庄領村鑑」に、「当村に百姓治兵衛と言者有り、或時大根畑を穿けるに曲物壱ツ掘出せり、開き見れば皆錆たる古銭なり、其内に嘉祥通宝二通り、何れも十六文宛なり、銭裏に一より十六字迄有り、此銭揃て持人は大福長者に成と言、然れ共今者似銭多し、嘉祥の外に色々有なり、ミなミな永楽以前の古銭なり、今に其曲物の底を所持せり。」とある。</p>
<p>右の「嘉祥通宝」という銭は中国南宋時代の嘉祥年間（一二〇八～二四）に発行された「嘉祥通宝」のことではないかと思われる。この時代、わが国では貨幣を鋳造することなく、通貨はすべて中国から輸入して、使用していた。この中国銭が当地方にまで行きわたり、安沢村のある者、恐らく高坊の先祖がこれを曲物に入れて土中に埋蔵しておいたものであろう。これが治兵衛に発見されたというわけである。</p>
<p>ところが、これから遥か後世の昭和四十三年五月にも、同じ所から大量の中国銭が発見された。持主が土取りをしていて偶然に見つけたということであった。この知らせを受け、小生駆けつけて調査したので、当時のことは鮮明に記憶している。</p>
<p>地下五〇センチのところに、深さ約三五センチ、径約三五センチの曲物に古銭がぎっしり詰まっていた。古銭はすべて錆びついて、大きなかたまりになっていたが、もとは糸に通して束にしていたものであろう。</p>
<p>全体の重さは七五キロ、枚数は数万枚を数えると思われた。銭の種類は開元通宝・太平通宝・天元通宝・至元通宝・正和通宝・祥元通宝・皇宗通宝・始元通宝・洪武通宝・永楽通宝等の約三〇種で、中国の唐・宋・元・明の各時代にわたるものであった。</p>
<p>果して、これが直接に神室山信仰に結びつくものか否かは、必ずしも明らかでないが、当時、安沢にこれほどの銭を蓄え得る有力者がいたことは確かである。</p>
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		<title>5.山屋・一の滝</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 07:08:38 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[新庄市山屋の奥、一の滝から二の滝・三の滝を経て杢蔵山に登り、一杯森・火打岳・小又山・天狗森へと尾根伝いに神室山に至る道は、昔は神室山登拝道八方八口の一つ、山屋口とされていた。
一の滝は、この道をたどる行者の水垢離をかく行 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>新庄市山屋の奥、一の滝から二の滝・三の滝を経て杢蔵山に登り、一杯森・火打岳・小又山・天狗森へと尾根伝いに神室山に至る道は、昔は神室山登拝道八方八口の一つ、山屋口とされていた。</p>
<p>一の滝は、この道をたどる行者の水垢離をかく行場の一つであったという。滝壺の下手に、行者が籠もった小屋跡と伝える平地もある。滝の中腹には石造の不動明王が祀られている。不動明王は修験者の守り神の一つとされている。恐ろしい姿のこの仏こそ、深い山中で、厳しい修行にはげむ行者の守護神としてふさわしい仏であった。</p>
<p>一の滝は、麓に住む人々の雨乞いの聖地でもあった。旱魃の年、人々はこの滝の流れに降雨を願い、五穀豊穣を祈った。滝壺の下りる道路脇に、高さ一・五メートルほどの「不動明王」と刻んだ碑がある。碑の側面に、文政九年五月二十八日、新庄町民吉村忠兵衛・古瀬裁兵衛等が五穀成就・領内安全を祈って建立した旨が記されている。山屋の修験者明性院宥抽の名も刻まれている。</p>
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		<title>6.八森山頂の一字一石経塚</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 06:00:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[最上町薬師原口から八森山に登る。山頂から尾根筋を東北方向に進めば、烏帽子山・槍ヶ先・火打岳・小又山・天狗森・の高峰を経て神室山に至る。
山頂の東七〇〇メートルほどの所の道路脇に直径二メートル、高さ八〇センチ位のマウンドが [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>最上町薬師原口から八森山に登る。山頂から尾根筋を東北方向に進めば、烏帽子山・槍ヶ先・火打岳・小又山・天狗森・の高峰を経て神室山に至る。</p>
<p>山頂の東七〇〇メートルほどの所の道路脇に直径二メートル、高さ八〇センチ位のマウンドがあり、中に無数の小石が埋納されている。あたり一帯は背の低いシャクナゲとササダケの茂みである。小石は一センチ内至二センチほどの平たい川原石で、すべてきれいな青色の小石で、表面に「菩」・「薩」・「佛」・「塔」・「授」などの字が丁寧に楷書で墨書されている。いわゆる青石一字一石経塚である。</p>
<p>周知のように、経塚は亡くなった先祖の霊を供養するために、あるいは自己の死後の極楽往生を祈願して、仏の教えである経典の法華経などの文字を、一字一字紙や瓦・石などに写書して土中に埋納したものである。この風習は、平安時代中期に始まるといわれる。</p>
<p>この時代に至ると、従来政治の中心に立っていた貴族の力が衰え、代わって地方の武士が台頭してくる。この社会の大転換期、世の中は乱れに乱れた。これを反映して、仏教思想も大きく変化する。すなわち、末法思想の盛行である。</p>
<p>これによれば、現在の乱世においては、仏（釈迦）の教えが正しく行われず、間もなく、これが全く行われない暗黒の時代が来る。この暗黒の時代が過ぎて、救いの仏、弥勒菩薩が現れるのは五六億七五〇〇万年後である。この弥勒菩薩の誕生まで、何としても仏の経典を保存し、菩薩に伝えなければならない。このためには経典の文字を書写して、これを土中に埋納しておくのが一番よい、という考え方である。</p>
<p>経塚の形式は時代とともに変化する。始めは、写経は金泥などの高級な料紙に行われたが、後には石や瓦などにも書写されるようになってくる。石を用いるにしても、一つの石に幾文字も記すのもあれば、八森山頂の如く、一つの小石に経文の一文字だけを丁寧に写すものもある。小石の中でも、青色の小石のみを選ぶのは最も尊い経塚である。</p>
<p>経文埋納の趣旨も、また、埋納の個所も時代とともに代わってくる。初めは、前にも記したように先祖供養とか自己の極楽往生祈願であったが、時代が下ると、自己の立身出世や子孫繁栄など現世利益の祈願、あるいは大きな川の畔に埋納し、洪水や水難の消除祈願、村境に埋納し、外部からの悪霊の侵入防除の祈願などの趣旨に変わる。</p>
<p>埋納の個所も、初めは、熊野山や月山・羽黒山の山頂など、とくに人々の信仰の集まる聖地に限られていたが、後には大河の畔、村落の境、寺社の境内にも埋納するようになった。</p>
<p>こうしてみると、八森山頂の経塚は、それほど古いものでもないかも知れないが、（室町時代か江戸初期の築造とみられる）、人々の信仰の山、八森山の頂の聖地に築かれたものである。経石の数は数万にも及ぶであろう。かくも膨大な数の、しかも青色の小さい川原石を一つ一つ丹念に選び集め、これに経文の一字一字を丁寧な楷書で記し、これを一〇〇〇メートルを越す高山に運んだ人は一体どのような人物であったであろうか。よほど八森山を信仰していた人であったに違いない。</p>
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		<title>7.金沢八幡神社境内の八森山碑</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 05:00:35 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[Ⅰ 神室山信仰の諸遺跡]]></category>

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		<description><![CDATA[新庄市上金沢、金沢八幡神社境内に「八森山」と勇渾な筆跡で刻んだ碑がある。高さ一・六メートルほどの巨碑である。幕末嘉永四年八月吉祥日の建立とある。ここからは、八森山の秀峰が真東に仰がれる。
他でも記したことであるが、この山 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>新庄市上金沢、金沢八幡神社境内に「八森山」と勇渾な筆跡で刻んだ碑がある。高さ一・六メートルほどの巨碑である。幕末嘉永四年八月吉祥日の建立とある。ここからは、八森山の秀峰が真東に仰がれる。</p>
<p>他でも記したことであるが、この山に対する人々の信仰は篤い。とくに、西麓の金沢・小泉・吉沢・萩野集落辺では、この山を「お八森」と呼び、この山にかかる雲のたたずまいによって季節の天候を占った。初夏、霖雨が続くとき、また、反対に干天が続き、作物が危うくなるようなときは、村人はこぞってこの山の頂に登り、柴を積み火をかけて、天気回復や降雨を祈った。毎年正月の「お六夜様」の晩には、女衆は揃ってこの山の峰から昇る明けの明星を拝んだ。</p>
<p>八森山は稲作に害をなすウンカ・ズイムシなどをも退治してくれる山としても拝されていた。萩野村の旧修験清光院に「八森山三所如来悪虫退散祈攸」と刻んだ神札の版木が伝えられている。</p>
<p>八森山頂近くにある青石一字一石経塚なども、八森山が地域の聖なる山であることを物語っている。</p>
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		<title>8.神室連峰の雪形</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 04:00:39 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[高山にうず高く積もった雪も春四月、五月ともなれば、急速に消え、山陵の骨格が露になってくる。しかし、谷間や窪地に残った雪は、しばらくは消えずに残る。これを麓の平野部から見ると、季節によってさまざまな形に見える。人々はこれに [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>高山にうず高く積もった雪も春四月、五月ともなれば、急速に消え、山陵の骨格が露になってくる。しかし、谷間や窪地に残った雪は、しばらくは消えずに残る。これを麓の平野部から見ると、季節によってさまざまな形に見える。人々はこれに如何にも似合った名前をつけて、季節の移り変わりの目印にしている。これが雪形である。</p>
<p>昔は、これが農作業を進めるときの暦であった。新庄あたりでは「杢蔵のワッパ雪」が有名である。杢蔵山の中腹の凹地に残る丸い形の雪形がこれで、形が昔の曲物の弁当箱（桧・杉などの薄いヘギを丸く曲げて作ったもので、飯を詰めて田畑や山に持参した）に似ていることからこの名がついた。ワッパの形は数日ごとにどんどん変わる。農民はこの形の変わり方を見て、田んぼを起こし、田植えを進めた。</p>
<p>金山町あたりでは、五月中旬ごろ、神室山に現れる馬の形を遠望して、「神室山の馬の腰が切れないうちに田起こしを済まさなければならない。」と言い、最上町周辺では、神室連峰の一支峰、八森山に笠を被った人の姿が現れたら種蒔きを始めるとし、この雪形を「種蒔き坊主」と呼んでいる。また、この山に馬の後肢（ともあし）が現れたら種をおろせとも言っている。</p>
<p>神室山の北側、秋田県旧雄勝町役内地方では、「神室山に高砂の爺と婆が現れたら種蒔きを始めよ。」としている。</p>
<p>最上地方から遠望される鳥海山には、「鶴」と「亀」という目出度い雪形が現れるし、飽海地方からは、「種蒔き爺」が遠望される。村山地方から仰がれる月山には、六月頃、右肩に「蛇の目」が現れる。「蛇の目が現れたら豆を蒔け。」というのが、この地方の諺である。吾妻連峰には「白馬の騎士」というハイカラな雪形が現れる。詳しくは拙稿『雪の言葉』（新庄市雪の里情報館　平成十五年刊）を参照されたい。</p>
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		<title>9.神室山と菅江真澄</title>
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		<pubDate>Wed, 17 Jun 2009 03:00:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<description><![CDATA[神室山登拝口八方八口の一つ役内口は、現在の秋田県横堀方面から役内川を遡る道筋であるが、上流部において、さらに森子沢口・一ノ権現口・西ノ又口・お峰がけ・東ノ又口の五つに分かれていたという。このうち、現在最もよく利用されてい [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>神室山登拝口八方八口の一つ役内口は、現在の秋田県横堀方面から役内川を遡る道筋であるが、上流部において、さらに森子沢口・一ノ権現口・西ノ又口・お峰がけ・東ノ又口の五つに分かれていたという。このうち、現在最もよく利用されているのは西ノ又口である。この西ノ又口の経路は、役内川の支流薄久内川の沿って登る道で、その七合目には、行者が身を浄めたという三十三尋の滝があり、この急坂を登り切った八合目、マミヤ平には「神室の神の御田」がある。ここから山頂まではわずかであるが、山頂近くに、昭和八年八月、金山町の修験万宝院等が建立した「雷神・太田神・水神」の碑がある。</p>
<p>役内川流域の村々の神室山（この地方では「鏑岳」とか「南鳥海山」とも呼ぶ）に対する信仰は格別に篤い。詳細は拙稿「神室山信仰の諸相」（山形県総合学術調査報告書『神室山・加無山』所収）に譲るが、流域一帯に昔の神室山行者の宿坊跡とか、篭もり堂跡・垢離とり場の跡、あるいは分社・遥拝所と伝える遺跡や堂社である。</p>
<p>中村集落の礼堂もこの一つで、神室山を遠望する個所に位置し、昔は神室山行者の籠もり堂であったと伝えている。この伝えは近代に始まるものでない。江戸時代後期、寛政の頃、この辺を歩いた民俗学者菅江真澄の著『雪の出羽路』もこの社について、「むかし神室の御岳まいりのとき、ここの七日のこもり、身もきよまばりて、みたけざうしぞしたりける。そのころおりのぼりの人みな礼拝せしを今の世かけて礼堂とはいふとなん。」と記している。因みに「みたけざうし」は「御岳精進」、つまり、「水垢離をかくなどして精進の行を積むこと」の意味とみられる。</p>
<p>また、関ノ口集落の八幡神社については、「此神社は役内の神室が岳（大明神岳の神形ともいえり）に座す神像なるよし。今は神室にうちむれて、みたけざうしせし事もあらざれば、此地に移し奉りたるといへり。」と記している。</p>
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